今、能登がとても注目されています。原因は言うまでもなく、2024年1月1日に発生した「能登半島地震」です。「能登」や「能登半島」という言葉が、これほどまでにメディアを賑わすことはかつてなかったでしょう。平穏であまり目立つことのない毎日が一瞬にして変わってしまったわけです。私は能登半島の生まれです。能登から離れもうずいぶん経ちますが、それでも思うところは多くあり、能登に親戚がいる、持ち家があるという点で、直接的なかかわりもあります。震災後に何度か能登を訪れました。完全に内部の人間とも外部の人間とも言い切れない視点で、能登を見ています。能登に関しては、震災が起こる前からも考えていることが多々ありました。この機会に、この場を借りて、思いをつづらせていただきます。
大きな変化が見られない、震災後3カ月の姿。
震災後の2024年3月に一度、現地に足を運びました。3カ月経っていましたが、倒れた家はそのまま。ここが震災直後と言われても真実として受け止めたでしょうし、実際に震災直後のままだったと思います。テレビなど見た光景が現実のものとして迫ってきて、何とも言えない衝撃を受けました。不便ながらもなんとか生活ができている、という程度の話ではまったくありません。荒廃のようなこの町で一体どんな生活が営まれているのだろうと、そうした疑問が沸いてきました。
金沢市在住で震災後の様子をよく知る人によると、能登までの道路が整備されるなど、ほんの少しずつは復旧しているところもあるそうです。直後は道路に亀裂が入るなど、能登方面に行くのは困難だったとのこと。能登に親類がいることもあり、能登方面に車で行こうと試みたものの、道路の状況があまりに悪く運転が難しい。道中には、ガス欠、タイヤのパンクなどで乗り捨てられた車も多く見たと言います。その人も危険を感じ結局は引き返し、しばらくは能登に行くのを控えました。
能登は2007年にも震災があり、その時も私は能登を訪れて生家や親類の家の復旧作業を行いました。町のあちこちで、一家総出で作業する姿が多く見られました。私のように郷里を離れた人も戻ってきていたのではないでしょうか。昔懐かしい人たち同士が言葉を交わしていました。しかし今回、町は閑散としていました。復旧作業をしている様子はほとんど見られません。程度があまりに違うので、住民の力ではどうにもならないことが多過ぎるのです。
加えて、もういくつか大きく異なるところがあると私は感じました。例えばそれは、住民あるいは私のように能登を離れた元住民の年齢層と、現在住んでいる人たちの人数です。2007年から約20年が経過しています。この間に能登を離れた人、亡くなった人はいるでしょう。その数は、能登に移り住んだ人、生まれた人よりずっと多いはずです。能登に対する価値観や考え方も、20年の間に変化したと考えられます。このことは、町の復旧や復興、雰囲気にも影響を与えていると考えられます。以下、一旦震災から話題を離れ、能登について振り返ってみたいと思います。
石川県輪島市門前町の海沿いの町。
私は能登で生まれ、10年ほど住んでいました。どこそこに10年住んでいたというと、あたかもその町の文化を深く理解し、町の隅々までを知っているような印象を持つかもしれません。しかし、実際のところ、その町のほんのごく一部に触れたに過ぎないというのが本当ではないでしょうか。特に私の場合は幼少期のころということもあり、記憶があいまいな部分があるのも否めず、能登を語るに値するか疑問符が付くところがあるのも事実です。一方で、物心ついたころには能登の住民として生活をしていました。さらに言うと、両親も祖父母もさらにその上の代も皆、能登人です。ある意味で、DNAレベルで能登がしみ込んでいる、そうした人間の語る「能登」だと捉えてください。
また、一口に能登と言っても、非常に広範囲です。そのすべてを一緒くたに「能登」として語るのはさすがに乱暴です。ここでいう「能登」とは、基本的には私が生まれ育った町を指すと考えてください。私が育った町をもう少し詳しく紹介すると、輪島市(旧・鳳至郡)門前町の海沿いの町です。この時、「町」というのは概念ではなく、具体的な町名を指すと捉えてください。詳しく説明すると、輪島市門前町は以下●●町ともう一つ町名が続くケースがあり、私が生まれた町はこのケースに該当しました。私が生まれた町は独特の文化を持っており、住民は「●●町」の住民であることを強く意識していました(これについては、後述する予定です)。
私が育った「町」は海沿いの町ですが、町を少し歩けば山も見えてきます。海にも山にも囲まれており、少々独特の地形と言えるかもしれません。漁村とは異なります。港はありましたし漁師もいましたが、限られた人数だったと思います。多くの家庭は漁業以外の産業から収入を得ていたはずです。
ここでの「能登」が、能登を理解する一端になればとても嬉しく思います。
能登は寒村ではない。
能登、海沿いの町、という言葉が並ぶと、なんとなく寒村をイメージするかもしれません。実際、現在の能登は、震災以前からこれと言った産業もなく、過疎地域の代表です。限界集落というほうが正しいかもしれません。現状、私の生まれ育った町の住民は、平均年齢70歳を超えていると思われ、この町は果たして存続可能なのだろうかと感じたことは一度や二度ではありません。
しかし、能登が昔から貧しい町だったということはないと、歴史学者の網野善彦先生が明確に否定しています。むしろ北前船を通じて繫栄した町だったと強調しています。そうした観点で見てみると、確かにハイカラな家が多かったような気がするのです。田舎なので家が大きいのはもちろんのこと、立派な外観だったり、由緒あると思わせる調度品を持っていたりしました(まったく関係ありませんが、哲学者のレヴィ・ストロース=仏=の著書に「能登を訪れた」との記述がありました。レヴィ・ストロースが能登のどの町に、なぜ足を運んだのかは不明でしたが、ともかくも、世界的な人物に行き先として選ばれたのだと、嬉しくなったのを覚えています)。
とはいえ、40年前には既に町の中に産業と言えるものはほとんど残っていなかったと思います。能登に家を構えながらも、能登の外で働くケースが多かったのではないでしょうか。参考までに、私の父は商船で働いていました。石川県のお隣の富山県にある商船学校(全寮制)に進学して商船会社に就職し、海外に行く船に乗るのが、期待される将来の一つだったと聞いています。商船の船乗りは、家から会社に通う働き方ではありません。数カ月間、船に乗って仕事をします。つまり、生活の拠点は能登でも、仕事はまったく別のところで行い、収入を得ていたわけです。感覚的には出稼ぎに近いかもしれません。
全員が富山の商船学校に行くコースを歩んだかは不明ですが、私の家を含め、父親が船乗りという家庭が複数あったのは確かです。そうした家庭では、1年の6カ月以上は父親不在の家庭となります。ただし、多くの場合、家には祖父がいるので、男手には困りません。また、帰国の際に海外土産を持ち込むため、超が付くほどの田舎でありながら、海外も身近に感じやすい環境ではありました。このほか、能登の人たちが収入を得る手段として代表的なものが公務員です。親が公務員という家庭も少なからずありました。
20年で子どもがいなくなった。
ここで、私が能登にいた約40年前を例に挙げながら、町がどのように変化したかを紹介します。約40年前、1980年代には町の中には子どもも大人も年寄りもいました。スーパー、駄菓子屋、タバコ屋、薬局、雑貨店、美容院・理容院、郵便局、呉服店、スナックと、一通りの施設は揃っており、町の中で生活をほぼ完結させられました。商売をやっている家は多かったと記憶しています。我が家も店舗こそ構えていませんでしたが、取次のようなことやっていましたし、親戚の家は商売やっていました。子どもがおやつを買うには困らないくらいの商店がありました。商店といってもだいたいが店舗兼住宅で、独立した店舗はスーパーくらいだったのではないでしょうか。魚を台車に載せて量り売る姿も見られました。畑を持っている家庭も多かったので、食にはかなり恵まれていたかもしれません。他方、クリニック・病院に行くには車が必要で、それについては少々の不便がありました。ただ、歯医者は隣町にあって、その歯医者の近くには、小学校があり、私が育った町や近隣の町の子どもたちが通っていました。
子どもたちは町内の保育所に通った後、先述した隣町の小学校に通うのが通例です。かつては小学校も中学校も町内にありました。今考えれば、あんな小さな町に小中学校が必要だったのかと思うほどです。それだけ子どもが多かったのでしょう。中学校は私が生まれた時には既に廃校となっていましたが、小学校は存続していました。少し上の世代は町内の小学校に通っていましたが、私が小学校に進学するころには廃校となり、上記の小学校に統合されました。廃校になった小学校の建物自体は残っており、子どもたちの遊び場のようになっていたのを覚えています。
何を言いたいのかというと、1980年代の能登の町は町として確かに機能し、そこには賑わいもあったということです。子どもたちの声がし、学生服を来た中高生が町を闊歩して、大人や年寄りが日々の生活を営んでいました。都会の真ん中とは異なり、いくらか不便はあったものの、穏やかで楽しい雰囲気がありました。しかし、町から小学校がなくなり統合されたことは、町の衰退を象徴していたのかもしれません。保育所も私が卒園して数年の間になくなっています。1980~2000年のわずか20年の間に町から子どもがいなくなりました。「最後の小学生」がいたのは90年代後半だったではなかったでしょうか。町の中の商店もまた一件また一件と消えていき、町の中だけで生活を成り立たせることが不可能になっていきます。2000年代初頭に町を訪れた時は、日本全国どこにでもあるはずの自動販売機を見つけられなかったと記憶しています。
1組また1組と家族が出ていく。
既にお伝えした通り、私が能登で生活していたのは生後約10年でした。小学生の時に能登から出ていっています。具体的には、両親と共に県都の金沢市に住むことになりました。先述した通り、私の父は船乗りで、1年の半年以上を船の中や海外で暮らしていました。大阪本社の会社でしたが、大阪で勤務することはほとんどなかったと思います。日本に戻れば家に行き、1~2カ月の長期休暇を取るという生活です。家から勤務先に通うわけではないので、生活の拠点はどこでも良く、仕事上は能登でも大きな不便はなかったのです。ついでに言うと、母は専業主婦だったので、能登を離れる必要はありませんでした。
それでもなぜ引越しをしたか。子どもを転校させなければならなかったのか。一言で言えば、「子どもたちの将来」ということになるでしょう。能登には産業があまりなく、就職先もほとんどありません。父のように船乗りになるか、あるいは公務員になるかくらいしか、選択肢がないのです。能登と言っても広いので、どこかに就職先はあるにはあるでしょうが、家から通うという生活が実現できたかは難しいところです。その意味では、公務員といっても、家から通えるとしたら役場くらいでしょう。同じ公務員でも例えば、教員になって配属先が金沢市内の学校になったら、金沢市内でアパートを借りるしかなかったと思います。つまり、遅かれ早かれ、私は能登を出る可能性が非常に高かったわけです。
さらに、能登には教育機関が高校までしかありません。大学に進学する場合も、ほぼ確実に能登を離れることになります。つまり、能登にいる期間は最長で18年です。私の両親は、私を大学に進学させるつもりでいてくれたのだと思います。それなら、早いうちに教育環境の良い金沢に行こうと決断したはずです。能登にも高校はありますが、進学校と言える高校は家から通える距離にはありません。つまり、大学進学を視野に入れるなら、遅くとも子どもが15歳の時には町を離れざるを得なくなる公算が高いのです。
私の家は、引越しの先発組でした。父が船乗りで母が専業主婦で、能登に縛れる要素が少なかったからだと考えられます。私たち家族より先に引越しする家庭もありましたし、後から引越しする家庭もありました。身軽で決断の早い家から能登(あるいは町)を離れて行ったのだろうと推測されます。私の親世代は、能登での生活と将来をシビアに評価したのです。
余談ですが、ごく個人的なことを言うと、私は能登を離れるのに大きな抵抗がありました。低学年の小学生が見知らぬ町に行き、知りもしない人たちの中に放り込まれるのだから、当たり前です。一方で、引越しを能登に残る人たちはどのように捉えられていたのでしょうか。印象に残るのが、学校でクラス担任から私の転校について言及された時のことです。「●●くんは、金沢という工場がたくさんあって空気の汚い町に行く」と言われたのを鮮明に覚えています。先生の言うことは100%正しいという時代の小学生でしたが、既に何度か金沢を訪れ町並みを目にしていた経験から、にわかには信じがたいことでした。親にも聞きましたが、「金沢はきれいな町だ」と断言しますし、私もそう思いました。当時はひたすら疑問でしたが、今思えば何らかのやっかみというか、心穏やかならざる思いもあったのでしょう。全員とは言いませんが、マイナスの感情を抱く人も一部にはいたと推測されます。
(あとがき)
「能登を振り返る」は不定期で掲載させていただきます。能登の生活、震災のことなどをお伝えさせていただく予定です。私は能登が特別だと思っていません。日本全国の過疎地域で、同じようなことが起こっているのではないかと推測しています。私がここで能登を語る意味としては、内部の人間の視点です。能登にいた人間、内部の人間がその内部について語ることに何らかの意義があると捉えています。日本の場合はメディアが東京に集中していますので、能登が取り上げられたとしても、あくまで東京からの視点です。対して、「能登を振り返る」では外部の人間が見る能登とは違った視点をお伝えできると考えています。求人広告、HR関連記事とは関係ないことも多いですが、ご了承いただければ幸いです。