能登を振り返る。 Vol.2
2024年5月の能登。家々は屋根が落ちているだけに見えるが、傾いている家、倒壊しかけている家が多い。砂浜に見える場所にはかつて海水あった。

5月の連休に能登に足を運びました。能登に行ったのは、これで震災後2度目のことです。1台の車に私と友人2人の計3人が乗り込み、私の生まれた町へと向かいました。友人2人には、家の整理などを手伝ってもらい、ありがたいことです。その道すがら、報道はあまりされないだろう小さな集落を訪れたり、現地の人の声を聞いたりしました。前回は主に過去の能登をお伝えしましたが、今回は今をお伝えしたいと思います。

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遅々としてではあるが、水道の復旧が進む。

念のためにお伝えしますが、車を使用したのは震災で鉄道が復旧していないからではありません。車社会を絵に描いたようなところですので、もともと鉄道を使う人は限られています。石川県は47都道府県で、沖縄に次いで駅の少ない県だったはず。一家に一台どころか、一人一台がほとんど当たり前となっています。普段の生活にも車は手放せず、道路の状況は生活の質に直結するわけです。若者の車離れは、鉄道の整備された限られた都市だけの話だと思います。震災前は金沢市内の中心地から輪島市まで約2時間。震災後は迂回などもする関係で3時間はかかるようになってしまいました。

道路は3月時点に比べると、いくらかは復旧しているように感じられました。コンクリートが埋め立てある個所がいくつか見られ、3月の時は通れなくなった道路も使えるようになっていました。印象的だったのは、トイレ・水道が使えるパーキングエリア(PA)や道の駅が増えたことです。仮設トイレは役目を終えて撤去されていました。トイレと同時に、仮説の風呂も撤去されているところがありました。おそらく水道が復旧したのでしょう。逆に言えば、震災があった1月から3月まで水道が使えなかったということです。宅地の水道も復旧が遅れています。ある現地の人によれば、水道は4月下旬に復旧と話していました。なお、電気が使えたのは震災から10日後。その間は、ろうそくで生活していたとのことです。

日本は世界でもトップクラスの先進国です。経済力があり、高い技術力も保有しています。震災の経験も決して少なくありません。それでも、震災後4カ月でようやく水道が復旧した地域があり、まだしていない地域もあります。もともと能登はインフラ関係が充実しているとは言えない土地ですが、それにしても時間がかかりすぎているような気もします。家については、相変わらずほとんど何も手が付けられていません。倒れた家は倒れたまま、傾いた家は傾いたままです。

反面、支援が減る・減っているという話も聞きました。素人目にも支援の手はまだまだ必要な段階だと感じます。いつまでも支援するわけにはいかないというのはわかりますが、自らの手でどうにかできる状況でもない。一部で「見捨てる」というワードが出ていますが、もしかしたらその方向に進んでいるのではないかとも思えてきます。確かに、能登は高齢者が多く、交通の要所とも言えないでしょう。地震がなくても10年くらい放っておけば、消滅しそうな町はいくつもあります(だから見捨てるのでしょうか)。仮に町を閉じることを思案しているとしても、どう閉じるかは議論の必要があるはずです。町が物理的になくなっても、少なくとも歴史は残してほしいとは思います。

復旧・復興、再建はまだ先のこと。

連休中ということもあり、各地で復興イベントが行われていることが報道されていました。ただ、中には現地とは離れた場所(金沢市など)で行われているイベントもあり、必ずしも実際の状況を映しているのではないと理解しないとならないでしょう。

同じ石川県でも、地震のあった能登と100キロメートルも離れた金沢市とでは、様相がまったく異なります。金沢市は元通りの賑わいを見せています。もう4カ月も経っているのだから、能登についてもある程度は復旧・復興も進んでいるだろうと想像するかもしれません。しかし、現地に行ってみると、復興には程遠く、震災後、下手をすれば震災直後が依然として続いていると気付かされます。報道は復旧が進んでいるところにも焦点を当てます。そこばかりを見ていると、本当の姿は見えてこないかもしれません。

復興イベントは、現地でも催されています。3月時点でのことですが、たまたま縁のある地域で行われているものがあって足を運んでみました。イベントは盛り上がりを見せており、ボランティアの若い学生スタッフが、きびきびと優しい笑顔で働いていました。頼もしい限りです。現地の人は、ほんの一時でも楽しい雰囲気を味わえたしょうか。話を聞くと、家はまともに生活ができるような状況ではないとのこと。イベントが開けるだけいくらかは復旧が進んでいる地域だったと考ええられますが、そうしたところですら、かなり厳しい現実に直面していると言わざるを得ないのです。

イベントとは異なりますが、つぶれた商店から破損を免れた商品を売る人たちもいるという話を聞きました。ただ、商品を売って復旧の足しにする、再建を目指す、という意図はあまりないそう。その日の充実を得るために物を売っている。そうした側面があるとのことでした。

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地域のお寺で話を聞く。

能登の生まれた町に向かう途中、小さな集落を見つけて車を止めました。報道はされないような、本当に小さな集落です。高台にあるお寺は、完全に倒壊していました。家の呼び鈴を鳴らしてみても、誰も出てこない。能登の町はいつ行っても大概静かなのですが、その町も連休中に関わらず、本当に静かでした。住民の方々は、避難所に行っているのかもしれません。

また別の町でお寺を見つけ、訪ねてみると、たまたま住職の話が聞けました。震災の話をしながら、そのお寺や能登の寺のことも説明してくれました。そのお寺は元は真言宗でしたが、真宗に宗旨替えしたとのこと。真宗に変わってからは歴史が残っており、今で17代目と話しておられました。輪島市門前町にはかつての曹洞宗の大本山だった「總持寺祖院」がありますが、多いのは真宗(大谷派)の門徒(檀家)です。他のお寺のことはわかりませんが、もしかしたら、真宗に宗旨替えしたケースが多いのかもしれません。

お寺について言えば、私が生まれた町のお寺も訪ねました。住職はいらっしゃらないようでしたが、奥さんに対応いただきました。奥さんとは面識があります。しかし、すぐには私のことはわからないようでした。名前を言ってもピンとこない様子。屋号を言うとすぐにわかってくれました。私の町は屋号で呼び合う風習があります。その屋号を口にしたのは10年ぶりか20年ぶりかです。

そのお寺も、大きく損壊していました。本堂には立ち入り危険を意味する「赤紙」が張られてあり、中を見ると床が抜けています。ご本尊は別の場所に移してありました。鐘楼は倒壊しています。鐘楼だけでも建て直すのは大変なことでしょう。能登のお寺は、重大なダメージを受けたところが少なくありません。能登からは宗教が消えてしまう可能性すら感じてしまいます。

お寺の敷地には、我が家の先祖代々のお墓もあります。お墓のほうに回ってみると、いくつもの墓石が横倒しになっていました。中には、元の場所から数メートル離れた先の階段に落ちている墓石もありました。試みに倒れた墓石を男三人で動かそうとしてみましたが、びくともしません。重機を使わないことにはどうしようもできないでしょう。これほど重たいものが、数メートルも転がっていったとは。地震の衝撃のすさまじさを感じると共に、墓地が元に戻ることがあるのだろうかという考えもよぎりました。

あとがき

つらつらと書いてしまい、ややまとまりの欠ける内容になってしまいました。大変申し訳なく思っています。私は能登生まれですが、能登のことはほとんど知らないことを改めて理解しました。ただ、土地勘や風習、文化への理解がまったくないわけではないので、そのあたりのことを自分なりのアドバンテージと捉え、「能登を振り返る」を書き進めたいと考えています。連休中に能登に行った話は長くなりそうなので、一旦ここで区切ります。

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