能登を振り返る。 Vol.3
石川県輪島市門前町 かつては海底だったところ。2024年3月撮影

前回の記事で、5月の連休に能登に足を運んだことを記事化し、現地の方からお聞きしたことなどを記しました。今回は能登の海や家屋、街並みのことを中心にお伝えさせていただければと思います。

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海底だったところを歩いている。

能登の地形が変わった、海が隆起した、という話を聞いたことがあると思います。実際、能登の海はその姿を変えていました。これまで海だったところが、陸になっているのです。メディアでは、海底が隆起したと報じられています。水が干上がったのではなく、海の底が陸地に出てきたのです。これはどういうことでしょうか。地面が割れるというのならわかります。地面に凸凹ができたというのもわかります。しかし、海底が上がってきたというのはにわかには信じがたいことです。それも、地震があったわずか1分で約4メートルも隆起したと分析されています。

能登の海を歩いてみました。これまで海底だったところを歩き、不思議な感覚に陥りました。なぜここを歩けているのだろうかという思いが頭をよぎります。しかし、本当に海の底だったのかという疑問は、足元には散らばるウニや魚が解消してくれます。もしここがずっと以前から陸だったならば、海の中にいる生き物がこんなところにいるはずがない。

私が育った町の海も、姿を大きく変えていました。子どものころ、海水浴をしたり、釣りをしたりした場所が陸になっています。地震が起こる前、実は私が育った町の海は、砂浜が消えていっていました。小学生の時に見た砂浜が、中学生になって見るとなくなっています。年々、砂浜が縮小されていくのを目にしていました。それが、今度はたったの1分で海がなくなってしまった。すさまじい自然のエネルギーです。

一度直した家が、また震災にやられる。

5月の連休に能登に行った大きな目的の一つは、生家の被災状況を再調査してもらうためです(再調査には立ち合いが必要になります)。罹災証明を得るための第一回目の調査では、準半壊と判断されました。確かに、見た目には大きな損壊は見られません。玄関のドアが壊れるなどはありましたが、それでも元の状態を保っているようには見えました。

しかし、中に入ると、どこかおかしい。傾いていることがすぐにわかりました。力を入れて柱や壁に体当たりすれば、倒壊してしまうのではないか。そうした危うさも感じます。家の中のドアはほとんどが引き戸で、これがまったく動かない。家がゆがんでいるせいでしょう。結局、すべてを外して中を通りました。2か所だけある開き戸はびくりともせず、その先は開かずの間となってしまいました。天井や床も所々壊れており、再調査してもらうことに決めたのです。

生家が地震の被害を受けるのは、これで2度目です。2007年の震災の時にも損壊し、父が修復しました。当時から空き家になっていましたが、父は将来は能登に帰るつもりだったようです。家の中の家具はほとんどすべてが倒れるなど、荒れ果てた状態でしたが、よく見ると水回りを中心にリフォームした箇所が見られます。しかし、父は予想外に早くに亡くなり、能登の家は完全な空き家となりました(母は存命ですが、金沢市在住でこの先能登に帰ることはありません)。私は能登の家のことは両親に任せていたので、今回の震災前にどのような状態になっているか、詳しくは知りませんでした。ただ、いずれ住むためにと直された家が壊れているのを見て、何とも言えない気持ちになりました。今でも、能登の家を思い出すと、気持ちが沈みます。能登の家は解体の予定です。付き合いのある建設会社の方によれば、解体するなら11月までに着工するとのことです。なんとも先の長い話。復旧・復興が進まないという話もうなずけます。

なお、調査に関して言えば、判断基準に不明点が多いこと、外観からでわからない被害が大きいことなどの理由で、再調査の依頼が非常に多いと聞いています。町の中を歩くと、どの家にも赤、黄、緑の紙が張られていますが、判断の基準が素人目にはわかりにいくことが多いのです。これが黄でなぜこれが赤なのだと疑問が生じます。

私は能登には住んでいないので、ある程度の距離感を持って調査結果を受け止めることができたでしょう。しかし、もし仮に能登の家に住んでいたとしたら、どのような感情を持ったか不明です。住むのは困難な家に対し、壊れているとは言えないと判断されたら、どう感じるでしょうか。そもそも罹災証明が最初に出されたのが3月に入ってからだったので、その遅さは受け入れがたいものだったかもしれません。

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思い出の品を見つける。

前回3月に来た時は、あまり長い時間、滞在できませんでしたが、今回は十分な時間を取って家の中を見ました。いずれ解体予定の家なので、どこかを修復することはしません。ただ、私が幼いころに使っていたもの、父や母、祖父母のものが多く残ります。古い家なので、探せば何かが出てくるかもしれません。正直、私自身は、家の物は放っておいて良いと考えていました。前の地震の後、両親が一応の整理をしていたからです。しかし、同行した友人に見ておいたほうが良いと助言され、それもそうかと思いなおしました。

家からはいろんな物が出てきました。昔の家の物の多さには驚かされます。捨てる、整理する、というのはきっと最近の概念なのでしょう。中には、「明治●年」と記された物もあり歴史を感じさせました。おそらくどこの家も同じような状況でしょう。出てきた物の中で、最も多かったのが食器類です。茶碗や皿が10セットも20セットも出てきます。いくら昔の家は大家族だといっても、同じ家に10人はともかく20人もいたとはちょっと考えられません。親戚が集まった時のため一揃えだと推察されます。そういえば、葬式の時、親戚一同でご飯を食べたのを思い出しました。私は能登の家では、冠婚葬祭の葬しか経験がありませんが、色味から考えて婚の時も使ったと想像されます。あるいはその他の年中行事の時などにも集まっていたのかもしれません。葬式以外では、夏祭りの時に大勢の人たちが家に集まっていた記憶があります。

食器のほかには、父が海外から買ってきた土産物も多く出てきました。正直、特別な興味は抱きませんでしたが、私自身が幼いころに使ったものや古い本などは、何となく見入ってしまいました。特に写真はじっくりと見ました。私には誰の写真かわからないものも多かったのですが、母に見せるとわかるものもあり、物の整理をしておいて良かったと思いました。同行した仲間には荒れた家の中の動線確保などに力を貸してもらって、とても感謝しています。

町中で、他県の職員の方を見かける。

その日は、時間の余裕もあり、同行した仲間のゆかりの土地なども訪ねました。印象的だったのは、他県の自治体の職員の方が多かったことです。どの方も自身の所属自治体が明示されたビブスをつけていたので、どこから来ているのかすぐにわかりました。そういえば、輪島市の電話窓口の方も他県から来ているとのことでした。おそらく、今輪島市には同市の職員の方より他県の職員の方のほうが多くいるでしょう。日本の自治体が連携し合っていることを初めて知りました。

たまたま話した他県の職員の方には、お昼を分けていただきました。炊き出しで残ったものとのこと。当然、弁当は持参していましたが、どう見てもその日のうちに消費しないと廃棄するしかなさそうなものだったので、ありがたく頂戴しました。現在、輪島市を含め能登は衣食住の環境が良いとは言えません。そうしたところに来て力を貸してくれるのはありがたいことだと思いました。

最後に、少しだけ報告させていただきます。能登に住む私の親族に人的被害はありませんでした。ただ、物的被害は決して小さくはありません。家の全壊、半壊を免れても、あるいは調査結果では全壊・半壊とならなくても、能登を離れる決意をした親戚がいます。友人・知人たちの話では、能登に仕事があるため県外に移り住んで能登まで通勤しているケースもあれば、仕事を辞めたケースもあるとのことです。

ごく個人的なことを言えば、能登という生まれ故郷とどう付き合っていくかを、想定よりもずっと早くに突き付けられたような思いもします。物理的には家がなくなっても土地が残り、それを所有し続けるということなのですが、簡単には割り切れない感情があります。今回の地震のことではありませんが、ある人から「家を解体した時のことを、いまだに夢に見る」という話を聞いたことがあります。その気持ちが、わかったような気もしました。どれだけ足が遠のいていても、生まれ故郷の記憶は残っています。思うこと、考えること、対処しなければならないことがたくさんあります。同じような思いを抱いている人は、少なからずいるのではないかと思います。とはいえ、ここに書いても仕方のないような話ですので、ここで一旦区切らせていただきます

あとがき

2回に能登に行ってきた時のことをお伝えさせていただきました。今、能登にはたくさんのメディアが入ってきていますが、報道されていないことも多々あります。あくまで個人的な視点からの「能登」です。私が見聞きしたことのみを綴っています。能登を知っていただく一端になれば幸いです。

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